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Posted by 京つう運営事務局 at

2009年09月27日

「この沈黙はなんなのか~閣僚就任会見・断想」 阿部浩己 

下記の阿部浩己氏の貴重な意見が掲載されたメールが送られてきましたので、転載します。

阿部氏はヒューマンライツ・ナウの理事長さんです。

「この沈黙はなんなのか~閣僚就任会見・断想」 阿部浩己 


 9月16日に発足した鳩山内閣の閣僚就任会見は、歴史的な政権交代の興奮に支えられてか、この種の会見には珍しく、存外多くの人々の関心を惹きつけたようである。なかでも千葉法務大臣の発言は、国際人権法に携わる私のような者にとってひときわ興趣をそそるものとなった。

 新政権下で取り組むべき課題として法相は、人権救済機関の設置、個人通報制度の受諾、取調べの可視化という3つの事柄に言及したのだが、これらはいずれも国際人権機関からの再三の勧告にもかかわらず、旧政権下ではようとして実現の見込みが立たなかったものである。

 とくに、人権侵害の被害を人権条約機関に訴え出て権利の回復をはかる個人通報制度については、国際人権保障の要としてその存在意義がいやますなかにあって、法務省(法務官僚)が頑として受け入れを拒んできたものであった。「司法権の独立」を損ないかねない、という形式論理をかかげてのことだが、この理由をもって個人通報制度を受け入れられないと言明している国は日本以外世界に1つもない。ちなみに「司法権の独立」を持ち出した張本人が当の司法府でないことは、2002年10月3日の参議院決算委員会における最高裁事務総局総務局長の答弁で確認ずみのことである。

 個人通報制度を備えた普遍的な人権条約には、女性差別撤廃条約のほかにも、自由権規約(市民的及び政治的権利に関する国際規約)、社会権規約(経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約)、人種差別撤廃条約、拷問等禁止条約、移住労働者権利保護条約、障害者権利条約、強制失踪条約がある。現時点で主要人権条約は合計9つと数えるのが通例だが、そのうちの8つに個人通報制度が備わっているわけである。(唯一備わっていない子どもの権利条約にもこの制度を付置しようとする動きが始まっている。)

 条約によっては(たとえば自由権規約や女性差別撤廃条約など)本体の条約とは別に選択議定書という別個の条約を用意し、それに入らないと個人通報を利用できないという仕組みになっているものもあるが、人種差別撤廃条約や拷問禁止条約などのように、条約本体のなかに個人通報制度に関する条項がおかれ、その条項を受諾することでこの制度が利用できるようになっているものもある。日本政府は、選択議定書を1つも締結しておらず、受諾宣言を1つも行っていない。要は、すべての個人通報制度を拒絶しているというわけである。(障害者・強制失踪条約については署名を終えて批准待ちの状態ではあるものの、個人通報制度を受け入れる意思は表明されていない。移住労働者条約は署名もしていない。)

 先進工業国のなかで個人通報制度をまったく利用できない国は日本だけといってよい。独自の路線を突き進むことが絶えない米国にしても、アメリカ大陸・カリブ海にまたがる米州機構内に設置された米州人権委員会への個人申立てができるようになっており、現に米国を相手取って、DV事案を含む数多くの申立てがなされている。アジアの近隣でも韓国やフィリピンをはじめ個人通報制度を利用できるところがふえている。


 個人通報制度の受諾は人権コミュニティにとって積年の悲願というべきものだったが、それを就任早々に法相が颯爽と口にしてのける情景は、政権交代という劇的な事態の進展なくしておよそありえなかったことといって過言でなかろう。

 もっとも、微醺を帯びた感慨にひたりながら深夜の会見の映像を追っていた身には、その場に居合わせた記者たちからの質問が法相の提示した政策課題に一片も触れずに終わったのはとんだ艶消しであった。死刑についての質問が出たのは毎度の儀式とはいえまだしも救いではあったが、記者たちには、法相の政策課題のどこにいかなる意味があるのかについての初歩的な理解が欠けているようにしか見受けられなかった。そうでなくては、意想外に踏み込んだ法相の発言に集団的無反応というあまりにも浮薄な態度を決め込むことなどできなかったのではないか。

 翌日以降の報道をみても、全国紙・地方紙のレベルでは、取調べの可視化について触れるものはあっても、個人通報制度に言及したことの意味合いを論じたものはなかなか見つけられない(9月18日現在)。マスコミにおけるこの沈黙はいったいなにを物語るものなのか。単なる無知あるいは蒙昧といって切り捨ててしまうこともできるのかもしれないが、ただそうだとしても、なぜそこまで無知であり得るのかについては別途考究せねばならぬことではあろう。

 とくに女性差別撤廃条約選択議定書については、本年7月の女性差別撤廃委員会における日本政府定期報告審査にあわせて市民運動がその締結を強くはたらきかけたにもかかわらず、自民党内での猛烈な反発にもあって後退を強いられてしまったという直近の背景事情がある。これはきわめて限定された集団のみが占有する特殊な情報なのではなく、いくばくかの情報アンテナさえもちあわせていれば、ましてや自民党・民主党、法務省、外務省などに日常的に出入りしている人々には、簡単に知り得ることではなかったのか。

 個人通報制度を受諾すると、日本の国内で対処しきれぬ人権問題が国際的な場に持ち出されてしまうことを恐れる向きがあることは承知している。そのどこが悪いのか、とも思うが、そうした思いを嚥下して議論を続けるなら、この制度が利用可能になることにより、制度に忠実な日本では、行政機関と司法機関の人権条約に対する向き合い方が少なからず変わっていくと思う。とりわけ日本きっての「エリート」層を構成する裁判官たちが人権条約に正対する姿勢を見せていくのではないか。

 個人通報制度は、国内で裁判手続きを尽くしてなお救済されぬ事案を国際的な場(人権条約機関)で審査するものである。そこでは当然に国内裁判所における条約解釈のあり方も俎上にのぼる。となれば、エリートの沽券にかけて、条約解釈の過ちを指摘されるような失態を犯すことは避けなくてはなるまい。

 そうとすれば、人権問題は、国際的な場に持ち出すまでもなく、日本の国内(裁判所)で解決される可能性がかえって広がっていくことにはなるまいか。逆説的ではあるが、個人通報制度を受諾することにより、日本の人権問題は日本の国内で国際基準に照らして対処されるケースがふえていくことになるかもしれない。

 それは、内向きの論理に閉ざされがちな日本の司法や行政を外に「ひらいていく」契機ともなる。そしてひいては、裁判員として裁定を下す「日本国民」の思考をグローバルにひらいていくことにもつながっていこう。

 ことほどさように、個人通報制度を受諾することの含意は思念を重ねるほどに広がりを見せていく。新法相の果敢な発言にまるで申し合わせたかのように沈黙を保ったマスコミの人々にも、ぜひその含意を汲み取る作業に従事してもらいたいものである。ほんの少しでいいから、「国際」というものへの関心をもちあわせてもらえないものかと念願する。むろん「国際」とは米国の謂いなどではない。国内の公的機関(行政官僚)にぶら下がって得られる他律的情報に思考を閉ざすのではなく、市民社会や国際社会において台頭する様々な潮流の意義を精確に掴み取る知的センスが報道に携わる人々には欠かせまい。そう期待するのはけっして過大なことではないと思うのだが。

(以上)

 

  


Posted by take at 19:00Comments(0)ニュース 

2009年09月27日

あなたの税金を新聞に?(2)

あなたの税金を新聞に?(2)

前回に続き、8月24日、毎日新聞に掲載された原寿雄氏の「新聞への公的支援論議を」に関して。

 

人生の大部分を同じ会社の仕事に費やし、しかも社長まで務めた原氏は、ある意味、ジャーナリストとしてはほんとうにかわいそうな人間だ。解雇や失業を経験したわけでもない。派遣やバイトで長い間、搾取されてきたわけでもない。狭い世の中で生きてきたのだから、その視点も限られている。しかし、もっとかわいそうなのは、日本の国民だ。このような方が日本のジャーナリズム界で影響力を持っているのだから。

原氏は、一党支配の国家で、最も影響力のある大手メディアのトップにいた方だ。「民主主義社会ではジャーナリズムが不可欠だ」と語っているが、一党支配の国家で、そのジャーナリズムが機能していないことを問題視してこなかった、問題視できなかった方だ。彼の記事では、新聞業界が、再販制度や特殊指定制度を維持するために、政治献金(ほとんどが自民党)をしてきたことも問題視していない。

 

「特定の利害に左右されない道義性の高さを肩代わりできる媒体は、当面ほかに見当たらない」などと述べている。つまり新聞ジャーナリズム以外には見当たらないということだ、「特定の利害に左右されない道義性の高さ」などが、彼の言う「新聞ジャーナリズム」にあるなどと、本気でそんなことを思っているのだろうか。原氏は、現在の日本の社会でほんとうに生活している人か?

残念なことに、原氏の講演を聞き、彼の著書を読む人が少なくない。日本の社会をよく知るジャーナリスト・ウォルフレン氏が言う「悲劇」がここにもある。
(つづく)

  


2009年09月27日

とことんあきれる原寿雄氏の「新聞への公的支援論議を」(1)

とことんあきれる原寿雄氏の「新聞への公的支援論議を」

 

米留学中、日曜日はたいていニューヨーク・タイムス紙の日曜版を買って、町の中心にある書店のカフェで3時間ほど読んでいた(ニューヨーク・タイムスの日曜版をすべて読み切れる人はいないだろう、それほどぶ厚い)。平日はニューヨーク・タイムス紙の他にウォール・ストリート・ジャーナル紙、クリスチャン・サイエンス・モニター紙などをよく読んでいた。アメリカの新聞は情報量がとても多い。多くのことを考えさせられるし、何か学んだという実感がある。

 

日本の新聞は驚かされることが少なくない。文字が大きくなったことを自分たちで祝福しているかのように見えるが、実は、その分情報量が少なくなり、実質的な値上げではないか、という見方はほとんどない。記事の中にはとことんあきれるものもある。その一つが、「新聞への公的支援論議を」という原寿雄氏のご意見だ。8月24日、毎日新聞に掲載された。毎日はメディアに対する厳しい批判記事は掲載せず(つまり、問題だらけのメディアの議論を避けている)、原氏のように新聞に税金を投入するべきなどという自分たちに都合のよい記事は掲載するようだ。

まず、この記事の中で、「インターネットは、オピニオンを飛躍的に発展させたが、その基礎となる『事実』は、自分の仕事や趣味の情報にとどまっているというパーソナルメディアとしての限界がある」と述べているが、何を言っているのか、さっぱり分からない。原氏は、共同通信社の社会部記者から、外信部長、編集局長、そして、社長まで務めた方らしい。しかし、「インターネット」とは何を指しているのかが分からない。また、「インターネット」と一括りしてしまうところがある意味すっごい。

 

原氏は冒頭で「インターネットの普及によって、読者離れと広告離れが深刻化し、いまのままでは日本の少なくない新聞が廃刊や経営規模の縮小を迫られるのは必至だ」と述べている。

今頃、何をおっしゃいますか?もう何年も前からわかっていたことでしょう。わかっていても、危機感が欠如していた、これは多くの人が指摘している。

「インターネットの普及」だけが主な理由だろうか?

「新聞がつまらない」という意見を今まで何度聞いたことか。いくらつまらなくても、新聞はとくに工夫や努力をしてこなかったのではないか。工夫や努力なくても、新規参入を許さない分野なので、生き延びることができたのだ。自分たちの給料は減らず、しかも、大きな会社なので、「安定」していた。また、記者クラブという、専門家いわく、「情報カルテル」を結んでおり、海外メディアやフリーランス・ジャーナリストを排除してきた。原氏はそのような問題にふれていない。現実を直視しないのか、それとも、できないのだろうか。

(つづく)