2009年12月29日
半澤健市 「グローバリゼーションの中の鳩山内閣」
私がお世話になる半澤さんのコラムを転載します。
リベラル21に掲載されているものです。
「グローバリゼーションの中の鳩山内閣」
―2009年年末の感想―
半澤健市 (元金融機関勤務)
《脱出願望から生まれた鳩山政権》
鳩山政権は、「格差社会」の出現という危機的状況への対抗的現象である。
小泉・竹中路線による新自由主義は「市場に任せればヒト・モノ・カネの資源配分全てがうまくゆき経済発展が達成できる」という市場原理主義であった。歴史を恐れぬこの哲学の毒は予想を超える速さと深さで日本の津々浦々まで廻った。
個別事象を挙げるまでもない。高度成長の成功経験を知る読者であれば、思想や職業や年齢の違いを超えて、日本経済がこれほど無残な姿に変貌するとはつい最近まで考えていなかったと思う。「無残」というのは経済実体だけではない。いま国内に充満している表現困難な閉塞感も「無残」の一部である。
自民党に見切りをつけ民主党政権を成立させたのはこの絶望的状況からの選挙民の「脱出願望」なのであった。願望は財界・官界・政界の「支配層」にもあり、一方生存自体を脅かされた「人々」の側にもあった。「支配層」とは昔風にいえばブルジョアジーであり、「人々」とはプロレタリアートのことである。
今どきそんなことを言っているのかという人には、名前を変えても実体は変わらないのだと私は言いたい。たとえば民主主義とカトリックの立場からでも同じ観察に達する。それはマイケル・ムーア監督の米映画「キャピタリズム」を観ればよくわかる。
だから鳩山政権は「改革推進」と「改革反対」という二つの魂を内包した二重構造政権なのである。「二つの魂」という言葉を私は、政治学者渡辺治の「鳩山政権論」を紹介したときに使った。
《グローバリゼーションに包囲された鳩山政権》
そうであるから、この政権を包囲する環境は当然にも「グローバリゼーションの世界」である。グローバリゼーションの世界とは何か。
それは前述のとおり「市場に任せればヒト・モノ・カネの資源配分全てがうまくゆき経済発展が達成できる」という新自由主義が主導する世界でありそれが実現しつつある世界である。その世界はどこにあるのか。
日本の近隣諸国はすべてそういう世界である。
中国経済は世界経済史上初めての規模と速度で巨大な国民経済を建設しつつある。それは市場原理を貫徹することによって実現しているのである。
韓国もまた十数年前のIMF危機に学んで、徹底した構造改革を実現した。韓国の金融機関に研修生として派遣した在日韓国人の部下とソウルで語った夜のことを私は忘れることができない。20年前のことである。我々は韓国産業はいつ日本に追いつくかを語った。初訪問した祖国で愛国的言辞を発する青年に対して、「そういうお前の気持ちはわかるが、現に韓国企業は256メガの半導体すら造れないではないか。日本は1ギガの世界に入っているんだぞ」と私は言った。
その韓国企業は大きな変貌を見せた。今、部門によっては韓国のサムソンやLGは日本のソニーやパナソニックや東芝も及ばぬ地位を電子産業の世界で獲得している。
日本にミサイルを向けている北朝鮮はどうなのか。彼らもまた経済発展によらなければ世界に生きていけないことを知り始めている。数年後には、北朝鮮版「改革開放路線」が中国のそれに40年ほど遅れて再現されることになるだろう。
新自由主義の本場であるアメリカにおいてもこの哲学は健在である。ウォールストリート・ジャーナルなどの経済メディアはすべて新自由主義の、忠実で洗練された広報部隊である。何だかんだといっても彼らの経済業績評価のモノサシは、株式時価総額であり企業業績であり投資格付けである。国家の経済的価値も格付け会社の評価で決まるのである。前FRB議長のグリンスパーンが閉門蟄居どころか依然活発であることを私は本欄で述べた。
オバマ政権の医療保険制度改革が骨抜きになった理由は「社会主義者」の政策だという共和党の批判―その背後には多数の人々の支持がある―に配慮したからであろう。
《グローバリゼーションは「弱肉強食」という批判で終わらない》
「鳩山政権を包囲する環境はグローバリゼーションの世界である」というのはこういう意味である。この原理の支持者は今でも我々の周りに山のようにいる。
小泉純一郎政権は「改革なくして成長なし」という惹句で日本国民1億3千万人を幻惑して成立したのである。それが5年も続いたのである。しかも09年8月の総選挙時点でもまだ人気があったのである。8月の総選挙報告で私はそれを書いた。
「グローバリゼーション」は異常現象であるのか。
弱肉強食の思想だと言って批判すれば引っ込む思想なのか。そんなことはない。何故ならこの思想はいくつかの強力な基盤をもつからである。
一つは人間のもつ欲望や差別意識である。
この思想はヨリ豊かになりヨリ名誉や権力に近づこうという人間性に基盤をもっているからである。歴史意識としてみれば社会ダーウィニズムであり「工場法」や労働者固有の権利以前の思想である。到底21世紀の思想になりえないものだ。
しかしグローバリゼーションに対する正統的批判に対しては、人間の本質を認めない社会主義的発想だという反発が強いのである。
私の企業時代の同僚のなかにも「人間欲望本質論」を本音とする人は多い。それは私の同僚が教養がなくて品性が低劣だからではない。「坂の上の雲」の愛読者である彼ら平均的な日本のサラリーマンはそういう風に考えるのである。
戦後の高度成長は、日本人の「醇風美俗」すなわち共同体的精神―それに対する批判は別に存在するが―を粉砕する過程でもあった。その結果到達したのがグローバリゼーションの哲学なのである。
二つはそれが国民的レベルで承認されたからである。
小泉改革の宣伝マンであり執行人であった竹中平蔵や太田弘子―太田は12月27日のNHK「日曜討論」でもまだ言っている―の常套句は「法人税の引き下げ」である。そうしないと日本企業は国際競争力を失ない生産拠点や本社を海外へ移転してしまう。財政は徴税基盤自体を失うというのである。これもまたビジネス社会経験者には通りやすい理屈であって、社共両党の論客も論破しにくい。
三つは「官僚機構」に、市場原理によって批判され改革されるべき実態があることである。それは我々が日常的に経験していることである。この感覚はきわめて普遍的である。新しくは「業務仕分け」の人気を見よ。あの人気は、人々のたび重なる日常体験が背後にあるのだ。官僚制へのルサンチマンの発散があるのである。官僚機構の非合理さは、古くは黒澤明が名作『生きる』(1950年)で描いた。私が07年9月、「リベラル21」に初めて書いた文章で黒澤のシナリオを引用した。
《グローバリゼーションの拡がりを直視せよ》
グローバリゼーションはこのようにしぶとい基盤をもつ原理である。しかもグローバリゼーションは経済現象だけなのではない。それが国際政治に与える影響も半端なものではない。戦後冷戦時代の終焉はグローバリゼーションの原因でもあり結果でもあった。冷戦終了に伴い「日米安保」体制は対共産圏の日本の専守防衛から自衛隊が米軍と共同して―実態は共同という名の傭兵であろう―世界のどこにでも展開できる「日米同盟」に変貌した。(日米同盟の変貌は孫崎享著『日米同盟の正体』の分析に拠る)。自衛隊の海外派兵は、多国籍化した日本企業にとって海外拠点、物流経路、在留邦人の確保に必要であるという論理が出てくるのである。
一方でグローバリゼーションは、政治に対する「経済の優位」という構図を造出した。米中の経済的関係は、第二次世界大戦までの戦争概念を革命的に変化させた。米中、日米、日中の経済相互依存は、かつての現実である日中戦争、日米戦争、米中戦争―朝鮮戦争における米軍対中国義勇軍の直接対決―の再現を可能性の低いものにした。
鳩山政権を包囲する世界の構図を、適切に検討することなく、また自民党政権半世紀の総括をすることもなく、野党やメディアは政権100日の成果を性急に批判している。しかもその批判は実に些末な事項の揚げ足取りやダブルスタンダードによるものである。この種の言説は建設的な討議を排除するだけでなく、鳩山政権の持つ時代的背景や課題を正当に提示できず問題を矮小化することに寄与している。普天間の移転先という問題設定自体に問題はないのか(評論家の武藤一羊は、普天間問題を日米同盟支持者によって「人質が大事か身代金が大事かという問題設定に嵌められている」という的確な指摘をしている)、財政規模の拡大と財政規律の厳格化をどう視野に入れるか、自民党的公共投資と民主党的消費喚起の比較、円安政策が本当に国益になるのか、などの基本問題がある。これらは短時間の議論で解決がつくような問題ではない。
来たる2010年は、韓国併合100年、日米新安保50年の年である。
戦後初の実質的政権交代を論ずる切り口は、歴史的な視点、民主主義の発展、外交の自主独立、世界経済の多極化、といった広い視野と長い時間軸のなかに重層的であるべきだろう。こういっても私は現在の鳩山政権の擁護や支持のために言っているのではない。政権交代の意義を深く論議することは、新年の大きな課題であり国益だと思うから私は言うのである。