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2009年11月15日

日本の新聞は「フランス革命前」


同志社大学・浅野健一教授による批判は参考になると思います。以下の部分はとくにわかりやすいです。私が取材でお世話になる浅野先生は日本では数少ない国際レベルの研究者だと思います。この意見だと前後関係がわからないと思う方は浅野健一ゼミの全文を読んだ方がいいと思います。

 

 

浅野:私は、日本のジャーナリズムは、新聞・テレビ・雑誌のレベルとしては世界最低の国の一つであると感じます。本当にレベルが低いです。映像の質とか新聞の印刷は世界一です。問題は中身です。特に新聞記者が書くところです。朝日新聞は、新聞記者が書いているところ以外は面白いです。「声」欄とか、先日、辺見庸さんの記事が載っていましたが素晴らしいです。それは、朝日新聞の記者が書いたものではないからです。NHKもNHKの記者以外が出ているところは素晴らしい。

 要するに、日本はフランス革命前の新聞です。市民社会が、まだ日本に成立してなくて、つまり日本は「臣民」社会なのです。「臣民」社会から市民社会に、ヨーロッパでは1789年に変わっていた。これによって、被害者や被害者遺族の代わりに国家が復讐する、仇討するという考え方ではなくて、ルソーなどの社会思想が出てきて、個人の人権を大切にして罪を憎んで人を憎まずなどの思想が今の近代市民社会ができているのです。

 ところが日本では、法務省も警察庁も1945年8月15日の前も後ろも変わってないのです。刑事手続に関わる人たちもそうです。だから広島少年院のような職員による暴力事件が起きるのです。何のために矯正をしているのか、ジャーナリズムは何のために報道しているのか分かっていないのです。だから、光市事件でいえば、「何の罪もない被害者を殺した」という言説は通用しないのです。この人たちがすべてテレビ・新聞を占拠する。そして報道している人たちも、「被害者の悔しい思いにこたえていく」と言い、それがメディアの仕事だと勘違いしている。これは、勘違いです。
 日本以外の先進国では、ジャーナリズムがそういう仕事をするのは間違いなのです。裁判でも「被害者の悔しい思いにこたえるのが裁判員」と思うのは全くの見当違いです。日本国憲法では、「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」(第76条第3項)と書いています。良心を持って裁判を行う。独立して裁判を行う。裁判員法にはそれがないです。
 良心に基づくという同志社の建学の精神である良心が裁判員制度の法律にはないのです。そこがすごく重要だと思います。だから、単純な善と悪を対峙する。国際政治でいえば、北朝鮮が悪で日米が善。善と悪に全部区分けして対立構造をつくって、それが非常にわかりやすいです。だから、視聴率も上がるかもしれない。それに異を唱える人はいない。しかし、本当のジャーナリズムとはそうではなくて、先ほど風間さんが言っていたように、「どうしてこんなむごいことが人間にできるのか」と哲学的に問うことです
 多くの加害者の人が幼児期に虐待を受けていたということは実際に多いです。幸せな天皇家に生まれた人が犯罪を犯すことは聞いたことがないです。世田谷の麻生さんの近所の人が犯罪を犯すことはあまりないです。社会的な要因がすべてであるとは言いませんが、多くの要因の中にその人の社会環境、経済環境、生い立ちが関わっていることを明らかにすることが、記者の仕事であるはずです。それにもかかわらず、勧善懲悪型、絶対的な善と絶対的な悪ということに生きがいを感じています。これは日本のジャーナリズムが抱える病気です。それをどうやって一人一人が直せるかにかかっている。
(以上)

 

 

 

  
タグ :浅野健一